さて

好きなことを、とて、ここで何かを言うとなるとどうしても烏蛇くんにまつわることになってしまう。
我ながらいささかキモいなあ・・・。

彼の「恋愛放棄」にいたるまでの文章(http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20080805)を読んで、いくつか感想をもった。
その感想の一つはネガティブで、自己を相対化できていない自家撞着的な内容であることが不満であった。
彼は明晰な分析力を有しているように見受けられるのに、己のこととなるとその切れ味が鈍るようだ。不思議。
そこで彼に相対化をすすめるために、おせっかいであるという自覚はありつつも僕は一つの記事を書いた。「ビビりつつも」というタイトルの記事がそれで、僕の人生の細部に触れぬ分、説得力には欠けるが言いたいことは言えたかと思う。

しかし、あの記事を書くことで、思いがけなく僕は「自分」というものについて考えさせられることになる。

烏蛇くんの記事に書かれたエピソードに似たような経験は僕もしている。なのになぜ、僕は彼のように「恋愛放棄」に至らなかったのであろう?
(まあ、あの記事に書かれた以後の時間の経過の中にその答えがあるのかも知れないのだが)。

そのことを考えるのは、自分の人生を振り返るよい機会になった。

彼と僕の違いの一つに、僕は「自分はこういう人間で、この先こう生きていくんだ」みたいに自分で自分の人生を決め込まなかった、というのはあるだろう。

彼は人生の非常に早い段階で「恋愛放棄」を決めたワケだが、僕はそうしなかった。それは、僕が「ここではないどこか」を想像するような夢想癖のある子供だったからかもしれない。
僕の前半生における人間関係も彼の述べる前半生の人間関係のように、豊かではない、僕にとっては非常にツラい人間関係だったが、当時の僕はその現実を受け入れずに、自分にとって好ましい環境や人間関係を夢想しつづけた。それは現実逃避でしかないのだが、結果としてその後の人生であのころ夢想した「ここではないどこか」があることが証明されてしまった。
自分にとって好ましい人間関係を手に入れることができたのだ。もちろん、そのために努力はした。それは自信にもつながった。

僕が烏蛇くんに思うのは、今の自分に好ましい関係を手に入れて欲しい、ということだ。彼にとって好ましいのであれば、それが世間でいうところの恋愛関係でなくても全然かまわない(とはいえ、それがあんまりにも犯罪めいてたりするとアレだけど)。
これはなんとなく、だけど、彼は今、変化の途中のような気がする。
キェルケ・ゴールのような「昔の自分」や「主義主張」に義理立てして今や未来の幸福を犠牲にする生き方は選ばないで欲しいな、と思うのだ。

我ながら非常におせっかいだと思うし、その批判は甘んじて受けますデス、ハイ